コラム|嬉野市の【けんさん英語塾】で現地で使える英語力・英会話を身につけましょう!家庭教師としてご自宅や指定場所へお伺いする事も可能です。
コラム
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- エッセイ 01
- <p>高校生に読んでもらえると長文読解の練習になると思います。</p><p><br></p><p>Are old Japanese temples worth preserving?</p><p><br></p><p>It is crystal clear that old Japanese temples are worth preserving. Although they are mainly made of wooden materials that are flammable and easily decayed, the fact that they are still well preserved shows the significance of how much people have cared for them over the years. The significance of Japan's ancient temples can be seen in aspects of history, art, and culture. </p><p><br></p><p>One such example is Horyuji Temple which was built in the 7th century. Fifty-five of the temple’s architectures are either registered as national treasures or important cultural relics. In addition to the valuable buildings, the temple possesses a number of Buddhist statues that are considered culturally as well as artistically important, many of which are national treasures. </p><p><br></p><p>To preserve old temples, experts meticulously examine every corner of the structures to ensure that the materials used are sustainable. When restoration is needed, they find ways to restore the temples using the same methods and materials that were used by ancient technicians. Often today’s experts are amazed at their ingenuity. </p><p><br></p><p>Old Japanese temples are not only wooden architecture, but also they are symbolic monuments for the people of the past and present who believe in Buddhism in the regions, making the temples absolutely sacred. Existing ancient temples transcend our minds to ancient days and people who shared the same religious beliefs that have been passed down through generations over the centuries.</p><p><br></p><p>Japan, as a nation, has a rich history in itself. Buildings that depict its history not only hold historical value but also possess artistic and cultural significance. Therefore, it is important to preserve the Japan’s ancient temples as a national heritage for future generations.</p>
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- 交換留学を終えて、その後
- <strong>交換留学を終えて、その後</strong> <div><br></div><div>コロラド州へ降り立ち、フロリダで交換留学のほとんどを過ごし、多くのチャレンジに立ち向かいながらも約一年の交換留学を終えて帰国しました。私の高校生活は、高1の夏から交換留学財団の受験と1年の準備期間を経て高2の夏から高3までほぼ留学のためにあった高校生活といっても過言ではありませんでした。そして次の目標を再び大学でアメリカに留学すると決めていました。そのため、帰国後多くの同級生が大学受験の準備に勤しんでいる中、受験勉強はほとんどしませんでした。とりあえず力試しのためにTOEICを受験したりしていました。</div><div><br></div><div>アメリカの大学に私がどのようにして行ったかと言いますと、先ずはeメールでだったと思いますが、フロリダ州にある3つの州立大学に願書や資料を送ってもらうよう手紙を書きました。一番行きたかった学校はUniversity of Central Floridaで無事にそこから願書をいただきました。アメリカの大学の入学時期は一年に何度もあり、季節ごとに学期が開始されているため入学時期は選べるようになっています。</div><div><br></div><div>アメリカの大学に行くためにはTOEFLという留学生の英語力を測るテストやSATといったアメリカ人の高校生が受けるテストを受ける必要がありました。TOEFLもSATも日本国内で受けることができます。SATに関しては東京のインターナショナルスクールまで受験しに行きました。SATの過去問もアメリカからネットで取り寄せました。また自分の高校の成績を英語の成績証明書にする必要がありましたからそれをとある機関に依頼してやってもらったり、高校の担任に推薦状を書いてもらったり、自分で小論文を書いたりといろいろとやることがありました。こういった事も、今では超進学校で海外大学の実績を作られているところはノウハウをたくさんお持ちだと思いますが、当時一人で調べながらやっており実際入学できるに至るまで高校を卒業してから1年半くらいかかったと思います。その間、アルバイトをしてお金を貯めたりひたすら英語を勉強したりして準備していました。</div><div><br></div><div>なんとか学生ビザが取れ、そんなこんなで2000年の7月に再び、フロリダ州オーランドへと出発するのです。</div><div>続く。。。</div>
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- 留学してた頃の話 その4
- <strong>アメリカの高校での学び</strong><div><strong><br></strong></div><div>Dr. Phillips High Schoolにはその時、同じ国際交流財団から私の他に2人留学生がいました。スイスの男の子とジョージア(グルジア)からの女の子でした。お昼は決まってこの二人と食べていましたね。実際、アメリカ人の友達は、そんなにできなくて仲が良かったのは、日本語のクラスがあったのでそこで知り合った日本とアメリカのハーフの女の子くらいでした。実際問題、アメリカの生活に慣れて英語が口をついて出るようになるまでは半年くらい目安でかかると言われていて、日本人は特に他の留学生よりも時間がかかるのですが、自分もやはりそれくらいまでは内向的だったと思います。精神的に苦しい時期も多々ありました。そういうわけで、自分からあまり友達を作ることができなかったので、スイスからの留学生のダビデ君と良く遊んでいました。</div><div><br></div><div>現地の高校でどんな授業を受けたかというと、まず英語がろくに聞き取れるわけではないので出来るだけ英語を使わなくて済む授業にしようと思い、アメリカ人が習う日本語のクラスを取りました。当然私には簡単です。笑 そして美術を取りました。これも英語があまりいりません。</div><div>それから数学、数学も正直理解するの言葉はなくてもできますよね。しかも、中学生レベルの数学を取ったのでめちゃくちゃ簡単で、先生からは良く褒めていただきました。その時の先生の名前も顔も仕草も、教えるときの情熱も今でもはっきりと覚えていますね。非常に熱心な先生でした。日本には、ここまで感情を豊かに出して教えてくれる先生はいないと思います。</div><div><br></div><div>それからアメリカ史の授業を取りました。これは、最初から無理だと思っていましたが、せっかくアメリカに来たのだからアメリカのことを理解しようと思って取ったんですね。なのでチンプンカンプンでしたが、近代史に入ってきたところで興味が出てきたのでテキストをたくさん読んで試験勉強もして受けた時に良い点数が取れたことがあってその時は先生も喜んでくれました。</div><div><br></div><div>多分、本当は自分の努力次第でもっと英語力もついたと思うし、自分の可能性も広げられた気はしますが、その当時はこれで精いっぱいだったのかなと思います。現地に留学すれば、日本にいる時よりもはるかに英語力は伸びます。でも、中には引きこもってしまい、ホームシックになり帰国したり、思うような成長を遂げられないケースもあります。異国の地に行く際には、自分の思うようにいかないことがたくさんあります。と言いますか、うまくいかないことだらけです。その際に自分がどのように対処し乗り越えていくのか、その心づもりもすべて整えていかなければ何度も何度も躓いてしまいます。</div><div><br></div><div>今の私が当時の自分に言い聞かせられるなら、そんなことを伝えたいな、なんて思いますね。実際は国際交流財団が高校1年の時に募集して留学生に選ばれてから高校2年の夏に留学するまでの1年で、様々な準備を合宿もしてやってくれてたんですけどね。</div><div><br></div><div>次回は交換留学を終えて帰国してからどうしたのか、そんな話をしたいと思います。</div>
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- 留学してた頃の話 その3
- <div><strong>フロリダ州、オーランドへ</strong></div><div><br></div>コロラドでの2週間が終わるころ、一本の電話が私宛に入ってきました。<div>以前日本の実家でアメリカからの交換留学生を迎え入れていたことがあったのですが、その時のアメリカ人からもしよければこっちに来ないかと招かれたのです。私は二つ返事でお願いし、フロリダ州オーランドへと向かいました。</div><div><br></div><div>オーランドはコロラドと違って、空港に到着したとたんから湿度と気温の高さに驚かされました。日本の夏と同じような蒸し暑さで、すでに秋の涼しさを漂わせていたコロラドとまったく違っていました。</div><div><br></div><div>オーランドは世界でも有名なリゾート地であり、世界的なテーマパークであるディズニーワールドやユニバーサルスタジオなどの立地として知られています。</div><div><br></div><div>そして、コロラドの田舎と違って中産階級や富裕層もたくさんいました。そして住む地域によって貧富の差が明確に表れている感じもしました。私がホームステイさせていただいた家庭はホストファーザーが中米からの移住者でコロンビア大学で建築を学び、成功された方で自宅にテニスコートまで完備されていました。</div><div><br></div><div>電話をしてくれたホストブラザーのニックは大変頭が良くて、高校でも日本の高校と同じレベルの数学をやっていました。アメリカの高校は自分の学力に応じて取得する教科が違っていて、できる生徒は高校3年くらいになるとコミュニティカレッジで習うレベルの科目を取れます。そして取得した単位はそのままコミュニティカレッジや大学で使えるため先々有利になることが多いのです。</div><div><br></div><div>そんなこんなで私もニックと同じ高校に留学終了まで通うことになりました。その高校は、Dr. Phillips High schoolといって、比較的富裕層がたくさん住む地区の学校なので教育の質も高いということでした。コロラドの田舎では白人が殆どでしたが、オーランドは白人、ヒスパニック(主に中米からの移住者たち)、黒人、アジア系と人種も多様でした。こちらでは、日本人の私も珍しがられずに溶け込むことができたのです。</div><div><br></div><div>次回はアメリカの高校生活について書きます。</div>
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- 留学してた頃の話 その2
- <strong>Birdがうまく言えない・・・</strong><div><strong><br></strong></div><div><strong><br></strong></div><div>高校留学ではフロリダで大半の期間を過ごしたのですが、実は当初コロラドで過ごす予定でした。</div><div>ところが最初に滞在したホームステイ先は、恒久的な滞在先が決まるまでの2週間という期限付きでした。</div><div><br></div><div><br></div><div>老夫婦とジャーマンシェパードのルーシーという名前の犬がいる家でした。</div><div>季節は9月に入ろうとしている頃で標高がマイルハイといって1600メートルを超える高地でもあり既に肌寒くなってきたのを覚えています。道はひたすら真っすぐで、町から外れると両サイドには広大なトウモロコシ畑が広がっていました。</div><div><br></div><div><br></div><div>そんな自然豊かな場所での最初の壁は、老夫婦に自分の発音が悪すぎたため何度も聞き返されたということです。そしてある時、おばあさんが私にbirdという単語の発音練習をしてくださったのです。この言葉の中にRがありますが、このRの発音が中々できずに何度も何度も練習しました。うまくできた時には、That's it! そうだ、その調子だ!と仰っていただいた事を懐かしく思い出します。今でも辛抱強くお付き合いいただいた事に感謝しています。 </div><div><br></div><div><br></div><div>そして、2週間が経ち、コロラドを離れて飛行機に乗りフロリダはオーランドへと向かうのですが、その話はまた次回。</div>
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- 留学してた頃の話 その1
- <strong>留学していた頃の話</strong><div><br></div><div>私は高校2年生の頃にアメリカのフロリダ州オーランド市でホームステイをさせていただき、現地のハイスクールに通っていました。その時のお話です。</div><div><br></div><div><br></div><div>やはり、最初は言葉の壁がありましたので、授業も比較的に分かりやすく自分の得意なアートの科目を取ってみました。その授業は工作とかクラフト系の授業だったのですが、ある時、私は隣に座ったクラスメイトの似顔絵を描いていました。すると、それが先生の目に留まり同じ美術でも絵を描く方を専門とするクラスにと勧められました。</div><div><br></div><div><br></div><div>そんなこんなで授業でも絵を描いていると、ことの外反響が良くクラスメイトの中には自分の描いた絵を欲しがる人が現れました。また、先生が私を美術の専門性が高い生徒が所属する課外活動に参加するように勧めてくれました。アメリカでは何かに秀でていると認められるとどんどん上に引き上げてくれるそんな土壌があると感じられたのです。実際、飛び級で上級生の数学を学んでいる生徒などもいました。</div><div><br></div><div><br></div><div>才能のある子どもたちに先に学べる環境を整え、多く学べるチャンスを提供するというのは素晴らしい考えだと思います。私は残念ながら約一年の留学期間を終えて帰国しましたが、自分が得意なことを褒めてもらい認めてもらえたという記憶は今でもずっと心に残っています。</div>
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